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婚約破棄された社内SEですが、私が作ったAIを止めたら元勤務先が崩壊しました
婚約破棄された社内SEですが、私が作ったAIを止めたら元勤務先が崩壊しました
작가: 八戸三春

第01話 パソコン係と呼ばれた女

작가: 八戸三春
last update 게시일: 2026-06-15 09:28:26

 白石澪がキーボードを叩く音だけが、薄暗いサーバールームに響いていた。

 時刻は午後八時を回っている。オフィスフロアはとっくに閑散としているはずなのに、澪はまだここにいた。三台のモニターを前に、コードの一行一行を丁寧に確認しながら、微調整を続けている。

 画面には、澪が二年かけて構築してきた営業支援AIの管理ダッシュボードが広がっていた。顧客の購買傾向、過去の商談履歴、季節変動の予測グラフ――。膨大なデータが整然と並び、システムは今この瞬間も静かに学習を続けている。

 (また精度が上がった)

 澪は小さく息を吐いた。満足感というより、安堵に近い感覚だった。このシステムが正しく動いている限り、会社の営業部は順調に回る。

 正確には――久我蒼真が、順調に回る。

 そう思った瞬間、スマートフォンが震えた。

「澪、まだ会社か?」

 蒼真からのメッセージだった。

「うん。少し作業が残ってて」

「はやく帰れよ。俺はもう飲み会終わって家に帰るとこ」

 それだけで、会話は終わった。「お疲れ」の一言もなければ、「気をつけて」もない。澪はスマートフォンをポケットにしまい、再びモニターに向き直った。

 白石澪、二十六歳。オーシャン商事株式会社の情報システム部に所属する社内SEだ。

 入社四年目の今も、社内での扱いはほとんど変わらない。「パソコン係」「便利屋」。誰かのPCが不調になれば呼ばれ、プリンターが紙詰まりを起こせば呼ばれ、Excelの関数がわからないと言われれば呼ばれる。それが澪の日常だった。

 本来の業務――社内インフラの管理やシステム開発――をこなしながら、そういった雑務も引き受けてきた。断れない性格が災いしているとわかっていても、困っている人を見ると放っておけなかった。

 情報システム部は五人で構成されている。部長の浅野を筆頭に、先輩社員が三人、そして澪。規模の割に仕事量は多く、全員が常に手一杯だった。

 だからこそ澪は、残業を厭わなかった。自分が処理できることは自分で片づける。そうすることで、チームの負担を少しでも減らしたかった。

 ただし、今夜の残業は情報システム部の仕事ではない。

 澪が今いじっているシステムは、会社の資産ではない。澪個人が、個人のサーバーで動かしているAIエンジンだ。会社にはライセンスとして月額一円で使用権を提供している。法的には澪の所有物であり、契約を終了すれば即座に止まる。

 (この契約書を蒼真が読んだことは、たぶん一度もない)

 澪はそっとため息をついた。

 サーバールームの空調が低く唸っている。澪は両手を膝に置き、天井を仰いだ。

 入社当初は違った。エンジニアとして貢献したい、会社のシステムをもっとよくしたいという気持ちで溢れていた。大学でコンピュータサイエンスを学び、プログラミングを武器に、新卒でオーシャン商事に飛び込んだ。

 ところが現実は想像と異なっていた。情報システム部の仕事は、システム開発よりも保守と雑務の比率が圧倒的に高かった。「DXなんて夢物語」と先輩たちは笑った。「うちは商社だから、ITはあくまでもサポート」と浅野部長は繰り返した。

 それでも澪は諦めなかった。業務時間外に、こっそりと開発を続けた。

 営業支援AIは、その結晶だった。

 最初は単純な顧客管理ツールとして作り始めた。だが澪のアイデアはどんどん膨らんだ。機械学習のアルゴリズムを組み込み、過去の取引データを食わせ、成約パターンを学習させた。顧客ごとに最適なアプローチ方法を提案する機能も加えた。商談の成功率が高い時間帯まで予測できるようにした。

 完成したシステムを、澪はひとり静かに営業部に提供した。

 正式な申請は通さなかった。「月額一円」という形式的なライセンスを設けることで、私的流用との線引きはした。でも澪の上司も、経営陣も、このシステムの本当の姿を知る人間はほとんどいない。

 手を挙げたのが、久我蒼真だった。

 当時、蒼真は営業成績が伸び悩んでいた。三年目で結果を求められ、焦りが顔に出ていた。「使えるものは何でも使う」という実利主義から飛びついた彼は、AIの提案を試すうちに成績を上げていき、翌年には部内トップに輝いた。

 そしてその流れで、ふたりは付き合いはじめた。

 (私が好きだったのか、AIが気に入ったのか)

 今となっては、澪にもわからない。

 モニターの光が澪の眼鏡のレンズに反射する。彼女はため息を押し込め、最後の確認を終えた。明日も営業部のみんながこのシステムを使う。データは蓄積され、予測精度は上がり、成約数は増える。

 誰も澪の名前を呼ばなくても、システムは動き続ける。

 パソコン係は、今日も静かに仕事を終えた。

 オフィスを出ると、六月の夜風が頬を撫でた。澪はコートの前を合わせながら、駅へ向かう道を歩いた。街灯の下、自分の影が長く伸びている。

 スマートフォンを取り出して、蒼真との会話を見返した。「はやく帰れよ」。それだけ。

 (彼は今日、何件商談があったんだろう)

 AIが提案した順番通りに客先を回っているはずだ。成約率は先月より高いはずだ。澪はその数字をダッシュボードで確認しているが、蒼真の口からその話を聞いたことは、最近ほとんどない。

 代わりに聞くのは、自分の武勇伝だ。

「今日も俺の読みが当たってさ、あの客先、絶対このタイミングだと思ってたんだよ」

 蒼真はそう言って笑う。AIの提案を自分の「読み」だと思っている。いや、知っていても、そう言いたいのかもしれない。

 澪はそれを指摘したことがない。指摘する意味を見出せなかった。

 (私は所詮、裏方だから)

 そう思いながら駅の改札をくぐる。澪の足取りは、いつも少しだけ重い。

 その夜、帰宅した澪はシャワーを浴びながら、ふと考えた。自分が今やっていることは、正しいのだろうか。こっそりと作ったAIを、こっそりと使わせている。法的な問題はないとしても――自分はこのまま、ずっと誰にも見えない場所で動き続けるのだろうか。

 鏡に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。

 明日もきっと、誰かにパソコンの設定を頼まれる。明日もきっと、蒼真はAIの提案通りに商談を進め、好成績を上げる。明日もきっと、澪は誰にも気づかれないまま、このシステムを動かし続ける。

 それでいい、と思う自分がいた。

 本当にそれでいいのかと、問い返す自分もいた。

 答えは出ないまま、澪は眠りについた。六月の夜は、静かに更けていった。

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